| 特集コラム 9.11の透視図 WTCのテロ以降、写真集はなにを伝えているのか? (02.6.11) |
第一回 リアリティの距離 昨年9月のテロについては、その直後から、あらゆる立場の人々があらゆる場で語ろうとした。 ある人は新しい時代の戦争の形態として、ある人はこの事件の背景にある中東情勢とアメリカの一極主義的行動との関係から、また別の人は被災者を助けようとして死んで行った消防士へのレクイエムとしてテロを語ろうとした。 語ろうとしたとは妙な言い方だと思われるだろうが、私にはどおうもそのように思えてならない。あのテロの後、アメリカの対テロ戦争開戦からアフガニスタンの暫定政権樹立にいたるまでの僅か半年もしないうちに進んで行くなか、テロに向けられたどの言葉もその語尾を消化しきれないまま、霞んでいったような印象だ。いつの世でも思考は現実の体験に追いつけないのである。 それは、もちろん日本でも同じことであった。というか日本では、アフガニスタン復興会議のNPO参加問題に端を発した例の鈴木宗男センセイを巡る一連のドタバタ騒動へとすり替わって行った。この事件とアメリカ政府の行動、そしてアフガニスタンやイスラムを巡る状況を、どのように受け止めるのかという問題はもう多くの人の関心を惹きはしない。しかし、誤解してはならないのが、このすり替え喜劇を選択したのは-それを誘導したのが誰であろうと-結局はほかでもない私たち自身であるということだ。 しかし、あのテロ事件が歴史の一部、つまり多くの人々が共感しうるある史観によって整理された歴史というもののなかで、昇華されたとは思えない。 あれからまだ8ヵ月である。いまあるのは、ただテロとその背景、アフガニスタンの事後処理などを巡って解説される単純で平板な構図でしかない。私はもう一度、あのテロ事件を中心にしたできごとと、私という個人の距離感を測らないとちょっとまずいなあと、漠然と思っている。 いや、そういう危機感は別にある具体的なこと、例えば有事法制の問題などのことではなく、ある事実に対する距離感や遠近感に対しバランス良く立っていない自分自身についての危機感なのである。ただ、次から次へと起こる事実をだけ追っている自分というのが、まるでバランスの悪い玉乗り曲芸師のように思えて、妙に危なっかしい。 では、そのバランスをたもつための手がかりはといえば、もちろん写真のなかに見るよりしようがない。なぜなら、私にはそれしかないのだから。 あの事件以来、テロやアフガニスタンをテーマにした写真集が相次いで出版されている。あのテロ事件そのものを捉えた写真集だけではなく、なかには事件以前に国際貿易センターを撮った写真もあったし、最近になって纏められたものもある。また長くアフガニスタンを見つめていた写真家のものもあれば、たまたまその現場に立っていたことで生まれた写真集もある。 つまり、あの事件の側面はとても多くの写真家によって撮られているから。それらのなかには私たちが見ているものについてと、私たちがどのような位置からあの事件を見ているのかという問いへのヒントがあるのだ。 写真のなかにはあらゆるテクストとおなじように、さまざまな言説によって積み重ねられ、拘束された眼差しのある傾きが、しかし客観を装ってつねに存在している。それをざっとでも見て行けば、きっとこの一連のことのなかで、欠けているものや過剰なものが見えてくるのではないだろうか。その部分こそ、いまの持っている現実に対する距離感を作っているものだと思うのだ。 というわけで、写真集を見て行くのは次回から。引っぱったわりには肩透かしのようなコラムでゴメンナサイ。 予告:第2回は『NEW YORK SEPTEMBER 11』マグナムフォトグラファーズ・新潮社です |
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プレゼミ修了イベントが近づいて (01.1.11) |
もっのすごく、ひさびさの日記。日記じゃ無くて年記だね。でも、気を取直して…。 さあ、去年から始まった僕が東中野でやっている「プレゼンゼミ」の修了イベントがもう明後日になった。 写真展とか冊子を作るとかだと、僕も経験があるのだが今回は映画館での上映会だもんで、ちょっと不安もあるが期待も大きい。写真という画像の性質に様々な形に加工する柔らかさがあると思うのだが、それが今回はデジタルビデオに取り込まれ果たしてどうなるか。作られたものが面白いということだけでなく、写真画像の自律性や、写真を見るという経験について、面白い試みになるだろう。いや、なってくれないと困るんだよな。 ちょっと泣きも入ってますが、まあ大丈夫でしょう。受講生の作品については、これは自信を持ってお薦めできるレベルになってますし、ゲストの山崎博さんの作品についてはこれはこういうもんだし。問題は僕の進行だけですね。まあ、始まっちゃえばなんとかなるんですけどね。 |